私のNPO(非営利団体)との出会い
今でこそ専門的に勉強をし始めた、非営利団体(NPO)のこと。
私が初めてNPOについて学びたいと思うようになった経緯を書きたいと思います。
NPOとの出会いは、アメリカとの出会いでもありました。
英語との出会い
私は2歳から高校1年生までの間、ラボ教育センターが運営するラボパーティーという教室で英語に触れてきました。英語の文法を習うというよりは、物語や音楽を通して英語で表現することを学ぶ活動です。
小さい子供から大学生までが一緒になって英語の劇を作りあげたり、ハロウィーンやイースターなどの様々なイベントを通して外国の文化を学ぶ体験は今思うと貴重な体験だったし、沢山のことを学びました。私の英語の土台を作れたのは、この活動のおかげです。
アメリカでのホームステイ/大学留学を意識し始めたきっかけ
2006年、中学2年生の夏休みに一ヵ月間アメリカのコロラド州というところでホームステイをしました。受け入れをしてくれたご家族は、農業を営むとても暖かい家族。
HelloとThank youしか言えない私の面倒を見てくれて、人生で初めての親の元を離れるという経験を支えてくれました。そして、このホームステイプログラムの提携先がNPOとして活動している「4H」という団体だったのです。
National 4H Council は国からの援助もあるので少し複雑ですが、「より良い農村や農業を創るための活動」を支援する非営利の組織です。
この組織を通してホストファミリーを紹介してもらい、現地の学校でジャズバンドの練習に参加させてもらったり、カウンティ―フェアなどのイベントにも参加しました。
帰国/国際協力への興味
一ヵ月のホームステイ体験を経て帰国した頃から、国際協力に興味を持ち始めます。当時は漠然と、JICA(国際協力機構)の存在、JICAがNGO/NPOとの連携をしていることなどを知っている程度でした。
大学留学時代
中学生の頃経験したホームステイ、中学の修学旅行で行ったイギリス研修で海外への興味は深まり、アメリカの大学で勉強しようというのはすでに頭の中にありました。
いざ、留学すると師事していた教授が自身のNPOを運営していたこと、それに加えてジャズのイベントを交えながら国際協力への活動をしていたことにより、NPO×JAZZの可能性をもっと突き詰めてみたいなと思うようになりました。
留学当初からアメリカの首都であるワシントンDCの近くにいたこともあり、NPOがいかにアメリカの歴史、文化政策と関連しているかということを肌で感じ、NPOのマネジメント、特に文化に特化した勉強ができる大学院で学ぶことを決めたのです。
【私の未来予想図】エンパワメントが支える未来とそれを支える私
このお題を書いていくうちに辿りついたのは、私の未来予想図は今までもこれからもエンパワメントを中心とした生き方だろうなということ。
いまの世の中では「自分らしさ」を見つける、というのをテーマにした広告や特番をよく目にする。
就職活動でのリクルートスーツ、流行りのファッション、人気のアプリ・・・いまとなっては当たり前となった決まり事や流行に必死に食らいついていくのか、ある程度のところで見切りをつけるのか。でも見切りをつけたところで、「変わりもの」として扱われてしまうのがこの世の中の優しくないところだと思う。その場に上手く属すことができない人に対しての風当たりは結構強くて、マイノリティーとして扱われてしまうのだ。
私は、幼少期から色々な習い事を経験させてもらっていたけど、それは私らしさを形成する助けもしてくれるのに加え、居場所も与えてくれていた。あまりお友達と仲良くできずにうさぎにキャベツをあげに通っていた幼稚園時代、ピアノ教室と英語教室に通っていた。特定の場所に私という人間を丸ごと受け入れてもらえなくても3分の1ずつ小さな居場所を確保していた。中学や高校時代もクラスに100%なじめている自信は無かったけど、部活と習い事に居場所を分配していた。どこの集団に居ても、他人と何かが違うという違和感を感じながら生きるのは楽では無かったけど、その立ち位置が今の自分自身をエンパワメントする手助けをしてくれていると信じています。
この生き方のお陰で自分の好きなことに没頭することができたし、周りの人と違うことをやっていても、流されないで人生を送ってこれたと思う。未来の予想図というのは一つも同じものはないだろうし、私の予想図もユニークな形だろうと期待している。
自分の生き方がどんなものか考えるようになったきっかけは、アメリカに留学をしてから。
日本の平均的な女の子よりも私の肌は色が黒くて、普段から「色黒くない?」とコメントされることが多かった。周りの肌が白くて可愛い子たちにとっては面白いポイントなのかもしれないけど、実はそういうコメントに対して心底イヤだと思っていた。留学を決めたときも、周りの人と違う進路だというだけで嫌味のメールが送られてきたり、日本には行ける大学がなかったんだね、と直接言ってくる人もいた。「白い肌が可愛い」「日本の大学の方が安定した将来がある」そういう考えの人が多かったから、外見についても進路についても悩みに悩んだ。(結局他の人の意見は押しのけて、自分のありのままの道へ進んだのだけど。)
アメリカに来てからは、白人から黒人まで居るなかで「差別」というのは社会の大きな問題として残ってはいるものの、周りに「アジア人だから~」「肌の色が~」「女だから~」というコメントを浴びせられたことはなく、お互いの違うところを尊重して生きている人が多いと感じた。
最近ではフェミニズム運動を間近で見たり、ジャズ界の女性の後押しをする活動に参加したり、実際に自分自身でイベントを立ち上げることによって、エンパワメントの持つ可能性に気づくことができたのです。
そうして、日本でリクルートスーツを着ての就職・会社員として働いてやりたことを後回し/我慢・女だからと強要される振る舞いや地位など「周りがしているから、する」という違和感のある生き方は選ばないことにした。
将来やりたいことが沢山あるので具体的に一つは絞れないけど、私の予想する未来の図は今よりももっと、弱い立場・マイノリティーの人たちが持っている力を発揮できる世の中になり、人と違うからといって端に追いやられないような世界。
そして私はその世界を支えるために「他の人と違う特徴があること・違うことをして生きること」は素晴らしいことなんだというのを伝えられるようになりたい。アメリカのジャズ界で特に私と同じ女性のエンパワメントに携わっていきたい。
私にとっての雪の結晶
季節に関してあまりこだわりはなくて、春と秋は過ごしやすい気候だから好き、夏は沖縄の思い出があるから好き、冬は雪で遊べるから好き・・という感じで年間で季節感に感情が左右することは最近はほとんどないです。
でも今日は珍しく、今週のお題「雪」について書いてみたいと思いました。写真は、大学時代4年間過ごしたバージニア州の小さな街で撮れた写真です。
自然の近くで
アメリカに来て気に入っていることは?と聞かれると、リストの一つに挙がるのは自然の中に出かけていくことが日本に居た時より圧倒的に増えたことです。これは他の国でも可能なことだし、日本に居ても森へいけばいいじゃんということになりますが、私にとっては今の自分の周りにある自然がしっくり来ています。
最近、大雪!!と日本で騒がれることもありますが、私が日本に住んでいた時には関東に居たこともあって辺り一面銀世界というのを経験したことはありませんでした。それに、スキーやスノボへの興味もない。
しいて言うのであれば、小学生の時に親戚の集まりで訪れた山形でソリを経験したくらいです。
暮らしの知恵
私のおばあちゃんは山形の米沢というところで生まれ育ち、たくさんの雪を見たと言います。女学校へはスキー板を付けて。
おばあちゃんの実家には七輪があったのを覚えています。受け継がれている雪堀や保存食など古くからの生活の知恵はどのくらい残っているんだろう・・と、ふと気になりました。
お題の「雪」とは話が逸れますが、雪の結晶を見るたびに過去のある出来事を思い出します。それは雪ではなくミョウバンの結晶の話なのですが(笑)
ミョウバンと涙の結晶
その出来事は小学5年生か6年生の時に起きました。当時、イジメが流行っていた私のクラスでは、一人残らずといって良いほどイジメを経験しています。(卒業時には、みんな仲良く卒業した覚えがありますが)当然私がいじめられていた時期もあり、波乱万丈の学校生活を送っている最中のことでした。
ある日、理科の実験でミョウバンの結晶をつくる授業がありました。運悪く、イジメのリーダーと同じテーブルに座ることになって気まずい時間が流れることに。
結局テーブルでチームが組めなかった私は一人でもくもくと準備をしていました。しかし器用でない私は、たしか結晶が付く予定の針金をうまく付けられないでいることに。何かと問題のあるクラスだったので、先生は手一杯で全ての生徒の面倒はなかなか見れず、私だけが休み時間まで理科室に残っていました。
そこでようやく私の存在に気付いた先生が、クラスメイトに手伝ってもらいなさいと、偶然か否かいじめのリーダーと他数人を呼んできたのです。悔しさ、恥ずかしさ、悲しみ、色んな感情が押し寄せてその時に滝のような涙を流しながら手伝ってもらったのを覚えています。
そんなこんなで恥ずかしい思い出ですが、結晶が出来上がってみるとなんと私達のミョウバンの結晶は綺麗な形で光輝いていたのです。あまりに出来が良いと先生が言うので、私はクラスの前で発表をすることに。
その頃には私に対するいじめも他に矛先が向いたのか消えて、涙の結晶とミョウバンの結晶が残ったのでした。
かなり話は逸れましたが、アメリカに来てからは雪が身近なものになりました。
見ていると何となく心が落ち着くような窓の外の雪を見ながら今日も修士論文を書き進めます。
エリントンの壁プロジェクト
日本の素敵な活動を見つけました。
最近、お米の産地新潟にある敬和学園大学のジャズバンドが、「Ellington Wall Project」というプロジェクトを立ち上げたという記事を発見。
Duke Ellington Wall Project (エリントンの壁プロジェクト)
Facebookのページによると敬和学園大学のジャズバンド「Jazz Quest」は、"新潟の国際親善名誉市民であるデュークエリントンをリスペクトして"活動をしているそう。
敬和学園といえば、私が高校時代に度々参加していたジャズフェスティバルで敬和学園高校のジャズバンドを見る機会がありました。その系列の大学でも2015年からジャズバンドの活動があるようで、今回見つけたプロジェクトはバンドの大学生たちを中心として立ち上げたようです。
プロジェクトの概要
1964年に起きた新潟地震の際ちょうど東京でライブをしていたエリントンは、その惨状を聞いてチャリティーコンサートを開きました。そこで集められたお金は義援金として新潟へ送り、その2年後には「国際親善名誉市民」の称号を贈られたそうです。
2018年、人を隔てる壁を否定したエリントンの背景と功績を後世に伝える為、新潟市のスケート場に壁画がつくられました。
(写真は、FBページから引用しました。)
しかしこの壁画のある施設は2019年の3月には閉鎖が決まっているそうで、この壁も一緒に解体されてしまいます。そのため、解体前に敬和大学へ壁を運ぼうというプロジェクトが発足しました。
エリントンの功績と文化的価値を伝えていくということ
私は以前ブログでも書きましたが、エリントンの生まれた街ワシントンDCに古くから残るジャズクラブも文化的価値・歴史的価値は関係なしに契約の問題で取り壊しされてしまう可能性があります。
またDCにも壁画があり、一生残るという保証はありません。
何を残すか、なぜ残すか、というのは場所によっても違うし、人によっても考え方は違います。何かを守る価値があると考えるひとは、その重要性や可能性について回りの人に発信していかなくてはなりません。
非営利活動やジャズ、芸術への理解が日本よりはあるであろうアメリカでも、こういうケースはいくらでもあります。
それぞれのコミュニティーがどんどん積極的に文化的価値について議論し、後世に残すべきものがしっかり受け継がれていく世の中になって欲しいと思います。
アニマルシェルターで動物を保護する時のステップ
アメリカのシェルターで動物を保護する時にステップについてお話します。
(暖炉の前にベッドで寝るマックス)
①人生を共にしたいと思える、動物を見つけよう
中には数十年生きる動物もいます。その動物の寿命がくるまでの間、安全で幸せな生活をさせてあげられる自信がある場合だけ、動物の保護をしましょう。
シェルターにいる動物は、事前にインターネットで見れる場合と実際にシェルターへ行かないと見れない場合があります。最近では、Facebookページなどで細かく体重・身長・種類などを公開しているシェルターも多いです。
②その動物に会いに行こう
インターネットで見つからない場合は、譲渡会やシェルターへ行くとスタッフ同伴で触れ合ったり散歩することが可能です。
将来の飼い主さんとの相性をみるためにも、数回遊んでみるのがお勧めです。また、他に動物を飼っている場合にも、同じ家で過ごせるのか確認するために面会をしましょう。
③保護の手続き
保護するという決意が固まれば、手続きを開始します。
書類への主な記入事項
- 名前
- 連絡先
- 家の家族構成
- アパート/一軒家
- フェンス付きの庭の有無
- 年収
- 仕事、家にいる時間
- 緊急時に預けることができる家族または知人の連絡先
- 今飼っている動物/飼っていた動物
- アレルギーの有無
この他にも、シェルターによっては家への訪問やバックグラウンドチェックがある場合もあります。
即日引き取り出来る子もいれば、予防接種や健康診断、マイクロチップ搭載をするために動物病院へ連れて行ってからの引き渡しになる子もいます。
私が保護したマックスはシェルターに来たばかりだったため、動物病院にて健康診断・去勢の手術をしてもらってから家に来ました。
保護するのは比較的簡単です。しかし、ペットを飼おうかと悩んでいる方には「動物の大切な命を預かる」ということを忘れずに運命の動物を引き取ってもらいたいと思います★
犬の里親になりました。
2019年1月25日、保護犬だったラブラドールレトリバーミックスの里親になりました。名前はマックス。生まれてからまだ10ヵ月で、好奇心旺盛のやんちゃな男の子。DNDテストをしていないので、正確な犬種は分かりませんがレトリバーとアメリカンブルテリアの可能性が高いと思っています。
(検査や手術を行った次の日なので、安静にしてなくてはいけないのに、家の庭で元気良く走ってしまった時の写真)
この子にする!と決めたとき、一緒にシェルターへ行ってくれた人達からは驚かれました。なぜなら。。
探していた犬のイメージ
- 毛がふわっふわ
- 初めての犬なので、散歩しやすそうな小~中型
- ある程度躾がされている成犬
実際に我が家へ来た犬
- 毛は短めで、ポメラニアンのようなふわふわではない
- 予定よりも大きく、ごはんもしっかり食べている今は26キロ
- 10か月でまだまだ子犬な部分も
思い描いていた犬とは真逆のタイプの犬だったからです(笑)
でも人懐こい性格と元気なところが気に入り、一瞬で決まってしまいました。
アメリカでのペットの里親プロセスは、また別の記事でご紹介します!
動物の保護団体
猫や犬、ウサギ、インコ、ハムスター、、どんな動物も大切な命。人間に幸せを与えてくれる動物たちですが、ペットとしての彼らは自分の意志で飼い主や住む場所を選べません。優しい飼い主さんのもとへ引き取られたペットは幸せな生活を送れますが、捨てられてしまったり、ペットショップで売れ残ってしまうと殺されてしまう可能性が多いのです。
小さい頃の私は犬や猫と触れ合う機会がほとんどありませんでした。唯一家で可愛がっていたのが、うさぎのルルです。小学6年生の夏に家に来て、そのあと12年間も楽しい時間と癒しを与えてくれました。
ルルは、近所のペットショップから生後数か月の時に我が家へ来ました。ルルと出会うことが出来たのもペットショップのおかげで、ブリーダーさんやお店から購入したペットと長年幸せに暮らしている飼い主さんも沢山います。なので、ペットショップが一概に悪いとは言いませんが、今回は大量繁殖・遺棄・引き取り依頼などの理由から動物を保護するアメリカのアニマルシェルターの紹介をしたいと思います。
アニマルシェルターの誕生
いまアニマルシェルターとして活動している団体は、もともと狂犬病が流行っていた時代に犬を収容していた場所でした。そこでは、感染がそれ以上広がらないようにガス殺や餓死をさせていたのです。
しかし1950年頃には、狂犬病のワクチンが義務付けられて動物の福祉や公共衛生を管理するようになり、その後アニマルシェルターとして少しでも動物の命を無駄にしないように働きかける運動が始まりました。
シェルターの種類
①行政の運営するシェルター
アメリカ各州の郡ごとにシェルターを運営しており、場合によっては3つの郡が合同でやっているところもあります。
ちなみに、私が一番よくボランティアしていたシェルターは「Tri County Animal Shelter」といい、Calvert郡・Charles郡・St. Mary's郡が共同で運営しています。 (「Tri」はギリシャ語由来で3つという意味)
行政シェルターは、「Kill Shelter」とも呼ばれており、ある一定の期間譲渡先が決まらなければ、殺処分の対象となってしまうことがほとんどです。
②民間の運営するシェルター
民間のシェルターは非営利の団体として活動していることが多いです。規模や活動の内容もそのシェルターによってさまざまですが、代表的なのは「Humane Society」や「Society for the Prevention of Cruelty to Animals」です。
このような団体や、特定の犬種だけをまとめて保護するレスキュー団体は、譲渡するときの条件が行政のシェルターよりも厳しいです。
・過去のペット歴
・ペットを飼える収入があるのか
・家の環境が整っているか確認するための訪問
など、団体によって条件が違います。
また、民間シェルターは「No Kill Shelter」として活動していることが多く、受け入れた動物の殺処分は余程のことがなければしません。その代わり、受け入れをする場合は健康かつ元飼い犬/猫だった、特定のシェルターからの転送のみ、など制限をしています。
シェルターでのボランティア
行政シェルターも民間シェルターも、ボランティアなしで運営をすることは難しいです。
ボランティアの種類は多く、動物の世話・動物の管理・受付・会計・獣医・運搬など、それぞれの人が自分の得意なことで団体のために貢献しています。
私も大学生の頃に、3か所のシェルターでボランティア登録を行い、時間のある時に犬を散歩させる・訪問者の案内などをやっていました。当時、寮に住んでいて動物が飼えなかった私はシェルターで動物に会うのが楽しみだったので、よく友人と訪れたものです。
次回は、私がシェルターから犬を保護したお話を書きたいと思っています。