ゆるアーツジャーナル

ジャズ/アーツマネジメント/日々感じることを綴っています。

幸せを創り出す

今月初め、旧友から「幸せに暮らしてる?」と聞かれた。

その日から「幸せ」という言葉がぐるっぐる頭の中で回っているので、幸せにまつわるいくつかのことを書いておこうと思った。 

 

ポツンと潜む日常の喜び

大学を卒業したころから、食とか芸術に関するエッセイ本や小説を好むようになった。冊数で一番多いのは江國香織さんの本。紛れもないありふれた日常なのだけど、その細かい描写の中に潜んでいる、小さくて暖かい喜びのようなもの。読んでいると、体の色んな部分にお灸をのせてじんわり温まる感じ。

文学って様々な種類があるけど、食や芸術、政治や自然など異なるテーマを器用に使いこなして人の心に寄り添ったり、考えさせてくれたり、見たこともない風景を見せてくれたり、時には何でもない描写を淡々と伝えてくれたりする。

私たちは人生の中で楽しいことだけじゃなくて、上手くいかないことや苦い思い出、忘れたい過去など色んな感情を味わうわけだけど、そんな中にもひっそりと隠れている喜びに敏感になることが可能なんだよ、と教えてくれる。

江國さんの作品で一番最初に読んだのは、「やわらかなレタス」だった。食べるという行為ひとつにおいても、こんなに沢山の優しいストーリーが語れるんだと衝撃を受けたのを今でも覚えている。真似をして、小さいノートに1ページずつ料理の思い出なんかを書いてみたら、シンプルだけど色んな感情が入り混じった短編集が出来上がったりした。誰に見せるわけでもないんだけど、自分の人生に小さいながらも愛おしいストーリーが案外あるんだなと、幸せに感じたのだった。

 

余分なこと

ホリーガーデンという小説のあとがきで江國さんは「余分なこと、無駄なこと、役に立たないこと。そういうものばかりでできている小説が書きたかった。余分な時間ほど美しい時間はないと思っています。」と記していた。

これは人の好みだけど、私は自己啓発系の本で「ビジネスの場で役に立つ10のこと」とか「すぐに使える英会話フレーズ」を紹介する本よりも、向田邦子さんの「父の詫び状」に描かれている昭和のある家族の日常だったり、森茉莉さんの「貧乏サラヴァン」に出てくる衣食住に対してのこだわりとかコアな道徳観を読み漁っている時間が幸せに感じる。

それは、単に作家さんの巧みな文章や面白い内容を楽しんでいるだけではなくて、仕事に追われるセカセカした日々とか嫌でも感じてしまうプレッシャーからシャボン玉みたいな膜で守ってくれている感じがするから。余分なことというのは、知識も感情も時間も含めた目に見えないモノを豊かにしてくれていると思う。今の時代に生きていると、頭の良さとか便利さが最優先されて、どうしようもなく焦ってしまうことがある。でも、そういう時代だからこそ、余分なこと・一切役に立たないことが存在すること自体、安心できて心のよりどころになると感じるのです。

 

 贅沢をすること

人は、どういう時に幸せを感じるのか。

これは、もちろんそれぞれの答えがあるし正解はない。

ヴィトンやグッチのバッグを買ったりして高級レストランでディナーする一日を幸せに感じる人もいるし、こたつに入って漫画を読んで過ごす一日を幸せに感じる人もいる。

先ほどの「貧乏サラヴァン」では森茉莉さんの贅沢に関する考えがでてくる。本の中で「贅沢だなぁと思いながら、贅沢するだなんてけち臭くて贅沢じゃない」という風に指摘している部分がある。現代社会では人がモノの支配されていて、不必要な浪費や消費をし、それを他人に報告して「いいね」と言ってもらって満足するという場面が多い。

本のなかの描写で「安い新鮮な花をたくさん活けてたのしんでいる少女」「中身の心持が贅沢で月給の中で悠々と買った木綿の洋服を着ているお嬢さん」など、派手でも高価でもないのだけど、こういう小さな喜びを見つけられるようなゆったりとした精神を持っていられることが幸せという状況であり、心から贅沢をしているといえるんじゃないかと思う。

 

 消費ではなく創り出すことに目をむける

外食をしたい!贅沢品が欲しい!など、欲は次から次へと出てくる。幸せでない状況というのは、「私にはブランド物のバッグを買うお金がない」「忙しいから海外旅行には行けない」と不足しているものを並べてしまっていることだと思う。幸せになろう、○○を手に入れよう、と必死になればなるほど苦しくなるものだから。

必要以上の浪費に目を向けるのではなくて、目の前にある小さな喜びを感じて幸せを創り出していくことが何よりもハッピーに生きるコツなんじゃないかなと私は思うのです。

ある国では階級社会が根付いていて、そもそも人と比べるという習慣がない。個人が自律して、自分を軸にできたら肩の力も抜けてくるよ、といつも自分にも言い聞かせる。人生の枠組みとしての役割を果たす「価値観」を確立できたとき枠外のことは気にならなくなる。

 

幸せ=価値を理解して成長していく

世代に名前を付けて悪いところを挙げるということがよくある。

ゆとり世代もゆとりを匂わせることができること自体幸せなことなんじゃないか。さとり世代も実は悟れるということが幸せなんじゃないか。どの世代も前の世代が持ち合わせていないなにかを持っている。

みんながそれぞれの価値や特徴を認めたうえで、成長する方法を見つけるんでも良いんじゃないか。

ネット上でネガティブなことを投稿して心を消耗させてしまうより、新しい世の中の価値を創れば良いのにねと思う。

 

 芸術もまた然り

芸術を通して何かを創り出すということも、幸せを創り出すということの1つだと思っている。

宗教の儀式から遠ざかって芸術として捉えられるようになった、イコン画のような宗教画も旋回舞踊などの舞踊の起源となる踊りも、もとは人間にとって生活の一部で神との一体的な恍惚をするための手段だった。私たちの本能的な望みは日々の営みのなかで芸術に触れることも含まれている。

 

江國さんの本について通ずるものがあって、芸術も生活の役に立たないような純粋なものほど美しいのではないか。そしてそこに政治的なメッセージや社会的な訴えが加わる時、別の種類の美しさが誕生する。

そういう活動をしている人は国に関わらず存在するし、一人ひとりが異なるバックグラウンドを持ちながらそれぞれの気持ち、考えを持って自律しながら作品を生み出す。そこに最大の価値と幸せが生まれる。

 

そんなことを思いながら私は今日もポツンと潜む小さな喜びを見つけ、幸せを感じている。

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ここに私の感じる幸せの定義をランダムに並べてみたけど、これも沢山ある幸せの中から抜き取った私自身の感じる「幸せ」の形なのであって、世の中が無数の幸せで溢れたら素敵だなと思う。